「えぇいッ! クソッ! 腹立たしい」
忌々しげにトーンは馬上から盾を投げ捨てた。
近習の少年が慌ててその盾を拾いに走る。
「殿下、落ち着いてくだされ。王家の紋章を投げ捨てるものではございませんぞ」
馬を並べる老齢の騎士がトーンを諌めた。
盾は金色地で、赤色で二本の角を生やした獅子が描かれている。
ハイランド王室ウォーレンス家の紋章だ。
「これが落ち着いてなどいられるかッ」
筋骨隆々、見事な身体を覆う甲冑を鳴らしながらトーンは不満をぶちまけた。
「ようやくの戦だぞ! どれほど待ち詫びたことか! それを……」
ハイランド第一皇子トーンは齢四十を数える。
この三十一年、戦争のなかったハイランドにとって、今回の戦は念願の初陣なのであった。
「それをただの一合も斬り結ぶことなく撤退などと」
トーン皇子の部隊はブロッソ王の指示で陣の最後方に敷かれた。
跡取りの万が一を恐れた王の気配りであったが、しかしトーンからすれば余計なことであった。
結果を見ればハイランド軍は撤退を余儀なくされ、まさに命拾いしたのだが、それでも腹の虫は治まらない。
いち早く王城へと帰還する道すがら、猛り狂った皇子を諌めることは結局出来ず仕舞いなのであった。
「おい、戦況はどうなっているのだッ」
トーンは部隊の連絡係に報告を促す。
「ハッ。我が軍の殿はオロシ伯爵が努めておいでです。彼の御仁であれば無事撤退も完了できましょう」
「ふん。エスメラルダごとき女の集団に遅れをとるとはな」
「お、お言葉ですが殿下。エスメラルダの翡翠の星騎士団はなかなかに侮れませぬ。舐めてかかっては……」
「わかっておる!」
どうにも怒りの納まらないトーンであったが、ここで様子が一変することとなる。
「なんだ、あれは?」
トーンの指差す王城ノーサンブリアの高い塔を部下たちも見た。
そして驚愕した。
「た、大変だッ」
「城がァ」
「第一の塔が崩れていくぞ!」
それはまさしく、マユミの攻撃で塔が崩壊した瞬間であった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ひときわ巨大な瓦礫が剥がれ落ちてくる。
呆然としていたウシツノだが悠長に構えている時間はない。
「というより、これはチャンスだ」
ウシツノは逆にこの窮地を脱出するチャンスと捉えた。
その際、足場にしているシオリの剣を見る。
「ただの剣じゃないんだ。平気だよな」
そしてシオリの剣をそのままに、そこからピョンと飛び降りてしまった。
二本の刀を持ったまま、そばに崩れ落ちてきた瓦礫に跳び乗ると、すぐにまた別の瓦礫へと跳び移る。
「ゲッコ、ゲッコ、ゲッコォ」
うまい具合に落下してくる瓦礫を足場に次々と跳び移りながら少しずつ地面へ近付いていく。
「よぅしッ、行けそうだ!」
その時、視界の端に心痛める光景が目に入った。
使用人と思しき女性が瓦礫と共に落下しているのだ。
おそらく塔の崩落に巻き込まれたのだろう。
そのような者が何人かいたとて不思議でない。
見たところそれなりに年を経た中年女性のようで、何かを大事そうに抱えている。
助けに行こうにもウシツノからは遠く、そして落下速度も早かった。
「すまん」
いったい何を抱えていたのか。
手を差し伸べることもできないまま、瓦礫の向こうへと消えてしまった。
とはいえ、それほど同情している余裕があるわけでもなかった。
巨大な瓦礫に跳び乗ると、斜めに傾く斜面を上へと向かいひた走る。
地面は目前であった。
墜落の衝撃を少しでも和らげようと懸命に上へと向かう。
下の方で瓦礫が地面に追突する衝撃が伝わってきた。
「うおおぉ」
その瞬間、大きくジャンプする。
カエル族はジャンプが得意だ。
当然着地も心得ている。
地上では落ちた瓦礫による破壊で粉塵が辺りを覆っている。
そこへ降り立ち勢いを相殺しようと身体を転がす。
何回転もしてようやく止まると素早く起き上がり全身を点検した。
どこにもケガはなかった。
少し胸が高揚してドキドキしていたが、深呼吸をして落ち着きを取り戻す。
「ふぅ。助かった」
安堵の息をついたウシツノだが、そこへいち早く駆け付けた者がいた。
「貴様、カエル族が我が城で何をしている! これは貴様の仕業かッ」
一難去ってまた一難。
ウシツノは騎士たちに取り囲まれていた。
そしてその騎士たちを指揮している者が剣を突きつけウシツノの正面に立ちはだかった。
「我が名はハイランド第一皇子トーン・ウォーレンス! 不審者め! 名を名乗れ!」
「ゲ、ゲコ……」
ウシツノはめまぐるしい展開に目が回りそうだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
塔の崩落で落下していた召使いの女性は墜落しながら気を失っていた。
それでも大事に懐に抱きかかえた腕はしっかりと閉じられたままだった。
その女性は地面への避けられるはずのない激突を免れていた。
高い、まだ地面へは程遠い高さの空中で、桃姫の悪魔の尻尾に絡めとられ、共に浮遊していたのだ。
「……赤ちゃん」
マユミは助けた女性が胸に強く抱いていた赤ん坊を見ていた。
その赤子がブロッソ王の一番新しい息子、ゼイムス二世であることなど知りようもなく。
「赤ちゃん……赤ちゃん……」
優しくその頬に触れてみる。
ゼイムスはくすぐったそうにしながらも眠り続けている。
「そう、赤ちゃんだ」
マユミの目はとても優しげで、そして慈しみにあふれていた。
「私にも……いた……」
何かを思い出した時、人はこのように目を見開くのだろう。
「そうだ。いた。私にも、娘が……」
マユミの口から静かに娘の名が漏れる。
「アユミ……そうだ。アユミ……」
マユミの顔半分を覆うマスクが妖しく光る。
「帰らないと! 早く帰らないと!」
バチィン!
「あぐッ」
一瞬、何かの衝撃で顎をのけぞらせたマユミの額から、握りこぶしほどの光球が飛び出たように見えた。
しかしその光球はまたマユミの額へと消える。
「…………わたし……今、なにか言ったかしら」
しばらくして顔を上げたマユミの目は、先ほどまでとはうって変わり、とても、とても冷めた目で赤子を見つめた。






