「最悪……」
レッキスの頬を一筋の汗が伝う。
ロープから手を放せば落下死は免れない。
超高層の外壁上で助けを望めるべくもない。
「なんでこのタイミングで桃姫が来るんよ」
ピンと張ったロープに右手を絡め強く握る。
左手では白いタヌキ、バンの入った檻を抱える。
強風で着ているメイド服が無秩序に荒れ狂うのが鬱陶しい。
コウモリ型パペットの群れを周囲にばら撒きつつ、マユミは羽根を広げレッキスへと近付いた。
「ッ!」
そっと両手でレッキスの頬に触れ、彼女が引くほどに顔を近付けてきた。
桃姫の吐息と肌の匂いを感じられ、不覚にも気持ちが蕩けてしまう。
(な、なんなん、コイツ。なんだかすごく、惹きつけられる)
紅潮したレッキスの頬を革手袋に包まれたマユミのほっそりとした指がゆっくりと伝う。
その手指がロープにぶら下がったレッキスの無防備な右脇の下まで来ると唐突に、
「こちょこちょこちょ」
くすぐり出した。
「キャハッ!」
予想外の不意打ちに、レッキスは思わず身をよじりながら普段と違う声が出た。
たまらず桃姫を退けようと右足で大きく蹴り出す。
「なあに、足のがいいの?」
自分では鋭い蹴りを出したつもりだったのだが、難なくその足を掴まれると、今度は内腿をサワサワと優しくさすられた。
「ひぎィッ」
ゾワゾワゾワ、とたちまち鳥肌がたってくる。
マユミの細い五本の指が縦横無尽にレッキスの内腿、膝裏、膝頭、ふくらはぎ、そして靴をはぎ取られ足の裏をこそばゆく蠢かす。
「ちょっと! やめ、やめてってばぁ! アハハハハハ」
「ねえ、あなたたち」
必死に身をよじるレッキスだが、マユミの力は彼女の脱出を許してはくれない。
「初めましてよね? ここで何しているの?」
レッキスの耳に息を吹き掛けてやろうとしたが、ニンゲンと同じ箇所なのか、はたまた頭頂部の兎耳なのか。
どちらにすべきか悩んだ末、首筋をペロンと舐めてみる。
「ふぐぅっ」
仲間の誰もが聴いたことのない声を出しながらレッキスは肩をすくめてしまう。
一歩間違えば即落下死のこの状況で、我ながら見事に弄ばれている、とレッキスの中で怒りが沸き起こる。
「痛いデシ! つっつくな、デシ」
そのかたわらでバンがマユミの尻尾でツンツン突っつかれていた。
「この白いカバはなぁに? なんでしゃべってるの?」
「カバじゃないデシッ」
心外だ、と抗議するバン。
その檻を強く握りしめながら、レッキスがマユミに悪態をつく。
「これがカバだって? よく見るんよ。どう見たってタヌキ……」
「うるさいなぁ。コチョコチョ、コチョコチョ」
「キャハハハハハッッッ! やめッ、やめてェェ」
「バンはバンデシ! なんたるッ、なんたる侮辱ッッッ」
一層笑い転げるレッキスに、一層憤慨する小動物。
ガシャッッッコン!
「よし、いいぞ! シャマン」
「喰らえッ桃姫ェェェェ」
ドラララララララッッッッッッ!!!
「ッ!」
突如轟音が鳴り響いた。
シャマンが下の窓から身を乗り出し、右腕からロープを伸ばしたまま、左腕のアームから勢いよくダーツを連続発射したのだ。
ウィペットに換装してもらった四番の拡張器具ガトリング・ダーツだ。
鋭いダーツが秒間三発、フルオートで発射され続ける。
三本の筒が回転しながら轟音を奏で、発射口から硝煙がたなびく。
それに合わせてマユミの周りを飛び交うコウモリパペットが次々と撃墜されていく。
「こいつぁスゲェ! 無差別に撃ち落としていくぜッ」
窓枠に片足を突っ張らせ、衝撃に踏ん張りながら遠隔自動攻撃を繰り広げる。
キピュン! ズカッ!
レッキスの目の前をダーツが掠め、バンの檻にダーツが刺さる。
「危なッッッ! デシ」
「コラァ! シャマァンどこ狙ってるん!」」
ガトリングの轟音の向こうからレッキスの悲鳴が聞こえる。
「大丈夫だ! ちゃんと避けて撃ってる」
「あんた無差別って言ったろさっきッ」
「チッ」
舌打ちしたマユミがレッキスから離れ大空を旋回し始める。
その軌道を追うようにダーツの連続弾道が後追いする。
するとようやく一本のダーツがマユミの羽根を貫通した。
姿勢制御を誤り、きりもみ回転しつつマユミが高度を下げていく。
「おっしゃあ撃墜!」
ドララララ…………ヒュンヒュンヒュンヒュンヒュンヒュン。
だがそこまで。
けたたましかった発射音は止み、むなしく三本の筒が空転する音だけが響き渡った。
「どうした! ウィペット」
「……弾切れだ」
「なにィ?」
装填した三百発はフルで撃てば二分ともたない。
「予備は?」
「あるわけがない」
「か、金がかかるな……コイツは」
撃ったダーツは拾えるだろうか。
一瞬のそんな思考をレッキスの声が妨げる。
「シャマンッ! そっち行ったッ」
「なにッ!」
「よくも楽しいコチョコチョタイムをッ」
姿勢を戻したマユミが羽根を広げシャマンの下から襲いかかる。
「テイルズ・オブ・スピアッッッ」
尾の尖端が鋭利な刃物となって伸びる。
「ぐがっ」
思わず一歩退いたシャマンが右腕を上げてガードしようとする。
ズバアッ!
それはロープが断ち切られた音だった。
シャマンの右腕から伸びたロープはピンと張られ、上方でレッキスがしがみついていたのだが。
「うわわわわわ」
下からの固定が解かれたため、激しい強風にあおられたレッキスの体は大きく振り子のように流され始める。
「くっ、マズイんよ」
荒れ狂う風にあおられ自身の握力に限界が見え始める。
ズッ……。
ロープを握った拳が下にズレる。
「ッ!」
それは一瞬だった。
あっという間にずり落ちた拳からロープを握る感触が消えた。
風、振り子、体重、疲労、汗、恐怖。
様々な要因が起因して、夕焼けに染まる大空へと、レッキスとバンは投げ出されてしまった。






