
「お母さん、いってきまーす」
朝七時、深谷レイはそう言って家を出た。
すごく晴れた天気のいい朝だった。
先週新調したばかりのリクルートスーツ一式に、これも買ったばかりの黒のパンプス。
これから本格化する就職活動に備え、気持ちを引き締めるべく、バッグとメガネ以外の身に着けるものはすべて新調したのだった。もちろん下着も。
細めの髪は黒一色。肩より少し長い髪を後ろで一つに束ねている。
肌は白く、縁の小さい眼鏡をかけている顔もまた小さめだ。
見た目通りのインドア派で、運動が苦手なレイは、普段からおとなしく自室で本を読んだり、映画を観賞するのが趣味だった。
自分にはこれといった特徴がない。
それがレイ本人が子供のころから抱えているコンプレックスであり、これから始まる就職活動への大きな悩みでもあった。
「なにかないかなあ。私のアピールポイント」
駅前の商店街へと続く道を歩きながら、頭の中で面接のシミュレーションをする。
頭の中では敗北に打ちひしがれる自分の姿ばかりが再生された。
「ダメかも、私」
勝手に落ち込む自分にがっかりしつつ、ふと顔を上げると、ちょうど駅前へとつながる抜け道の前を通りかかるところだった。
ただ普段、レイはこの道を通らないようにしている。
ここを抜ければまっすぐ駅前に出られるのだが、この通りは実はいかがわしい飲み屋や夜のお店が軒を連ねる通りなのだ。
不潔だから。
そう言って嫌悪することでこの道を通らない理由にしてきたが、実はただ単にこの道を通り抜けるのが怖いだけだった。
「でも、今は朝だし」
天気もいいし、ネガティブな頭を振り払いたい気持ちもある。
いつもと違う通りを歩いて気分を変えるのもいいかも。
その時レイの足元を一匹の黒猫が走りすぎ、そのいかがわしい通りへと入っていった。
その黒猫が振り返り、レイの顔を見上げ一声鳴く。
「こっちへおいでって言ったの?」
なんだかそれが唯一の正解であるかのような気がして、レイは通りへと足を踏み入れた。
狭い道の左右にいくつもの店が並んでいる。
大小さまざまな看板が並び、そのどれもがお酒か女の子を連想させる言葉が並んでいる。
ひどいものになると、看板にあられもない格好の女の写真がでかでかと貼られていたりする。
それも一つや二つではない。
「なんで男の人ってこういうのが好きなんだろう」
別に男に限ることではないだろうが、レイの中にはこういう世界そのものが異質であり、理解の範疇の外側なので仕方がない。
それでもレイは少しだけ今のこの状況を楽しんでいた。
駅前へ抜けるためのたかだか数十メートル、狭い路地裏の世界だが、レイにとってここは新鮮な異世界であった。
それに早朝ということもあり、夜の住人が多いこの世界には今、誰の姿も見えない。
とても静かで穏やかな世界だ。
ここへ引き込んだ黒猫も、いつの間にか姿を消してしまっている。
「違う景色を見るのも面白いな」
たまにはここを通り抜けるのもいいかも。
数分前まで抱いていた、この通りに対する嫌悪感や畏怖といったものがすっかり消え失せていた。
だが。
「あれ、おかしいな」
しばらくしてレイは異変に気がついた。
誰にも会わないのはまだわかる。いや、それだって本当はおかしいのだが。
コッコッコッコッ。
新調したパンプスの足音だけが鳴り響く。
コッコッコッコッ。
確かに道は狭いし、看板やら何やらで先を見通すのも難しい。
でも。
コッコッコッコッ。
いくらなんでもおかしい。
どれだけ歩いてもこの通りが終わらない。
こんなに長いはずがない。
ゆっくり歩いたって五分もかからず駅前に出るはず。
迷路じゃあるまいし、ほぼ一本道で迷うなんてことはない。
コッコッコ……
立ち止まり、後ろを振り返る。
当然だが出口など見えようはずもなく。
途端にレイの中に恐怖心が顔を覗かせ始めた。
ココッココッココッココッ。
少しスピードを上げ、再び駅前に向かって歩き出す。
景色は変わっているはずだが、レイにはどれも同じ景色にしか見えない。
いつしか早足は駆け足になっている。
心の中は不安でいっぱい。
頭の中は混乱しっぱなし。
「ニャア!」
ビクっとして顔を横に向けると、そこに黒猫が一匹、こちらを窺うように佇んでいた。
レイをこの世界に誘った張本人だろうか。
立ち止まったレイはその黒猫に近寄ろうとする。
「ニャアーッ!」
大きな声を出した黒猫に驚いたレイはその場で硬直してしまった。
そして突然視界が真っ暗になった。
力が抜けていく。
レイが感じたのは、闇に包まれ、闇の中を落ちていくような浮遊感だった。
辺りは真っ暗で、目を開けているのか、閉じているのかもわからない。
そのうち自分が何を感じ、何を考えているのかもわからなくなる。
「ああ、これが無か」
その感想を最後にすべてが思い出せなくなった。
そしてレイは気を失った。