午後もだいぶ過ぎたころ――。
アマンはひとり、カザロの村から東へと歩を進めていた。
先程から降り出した雨は一向に止む気配がない。
むしろ少しずつ雨脚は強くなっているようだ。
だが雨はカエル族にとって苦ではない。
むしろアマンは足取りも軽くなった気さえしていた。
それは雨だけが理由ではない。
今歩いているここは<ruby>葡萄古道<rt>ぶどうこどう</rt></ruby>という。
道の左右を生い茂る野生のブドウが幾重にも垣根を作る甘い古道だ。
カザロの村からは東へ歩いて三時間はかかる。
決して整地されたブドウ畑などではない。
むき出しの石灰岩がゴロゴロと転がり、うっそうとした雑木林が辺りを薄闇に包む。
雨の多い地域でもあり、岩や木の根には苔がびっしりと生えている。
その薄闇の中を縫うように一本の細い道が続く。
その道に沿ってブドウの木が生い茂るのだ。
ここは自然が無造作に織りなす甘い香りの古い道なのである。
アマンは歩きながらそばになっているブドウを一粒、取っては食べ、取っては食べとしながら、道なりに歩いていく。
「まだすっぱいかな」
もう少し経てば丁度良い食べごろになる。
カザロではこのブドウを使ったワインを楽しみにしている者も多いが、アマンはそれよりも雪白山羊の乳から作ったスノウチーズをふんだんに使ったブドウグラタンが好きだった。
「また食べられる時が来るのかな」
種と皮を器用に飛ばしながら、カザロ村の惨状に思いを馳せしばし憂鬱な気分になる。
ふと、アマンはブドウの生る垣根の向こう側に気になるものを見つけた。
湯気だった。
雨に煙る茂みや石灰岩の白い岩場でわかりずらいが、確かに湯気が立っている。
こんな場所でお湯を沸かしている者などいるはずがない。
ましてこんな所に温泉などあろうはずもない。
アマンは道を外れ垣根の向こう、茂みをかき分け、薄暗い雑木林へと入っていった。
岩にたくさんの苔がむしている。
木の葉に当たる雨粒の音が不安感を後押しする。
湿った腐葉土が重なり合った地面の上に、予想通りのそいつがいた。
いや、予想は半分当たり、半分外れだった。
打ちつける雨粒が体に当たった途端、じゅうぅ、と熱で蒸発してしまう。
そいつの周囲は次々と蒸発していく雨粒による湯気で覆われていたのだ。
アマンに背を向けたまま丸まっているのは赤い髪の、ニンゲンのメスだった。
一糸まとわぬ全裸の体を両腕で抱え込み地面にうずくまっていた。
冷たい雨に震えているのか、ほとばしる熱気で体が熱いのか。
アマンにはわからなかったが、恐ろしさよりも弱々しさの印象が勝った。
「お前、さっきのドラゴンニンゲンだろ?」
「ッ」
アマンの問いかけに赤髪の女は驚いた顔をして振り向いた。
「あ……」
声を掛けてからアマンは白角の舞台での事を思い出していた。
シオリの時のようにニンゲン語以外通じないかもしれない。
しかしアマンにニンゲン語など話せるはずもない。
とりあえず普段通りの西方語で話す以外ないのである。
「キッ!」
女は強くアマンを睨みつけた。
一瞬アマンはあの恐ろしい炎の力を思い出し半歩後ずさった。
だがすぐに女の顔を見て恐れるのをやめた。
女は泣いていた。
はっきりと雨ではないことがわかるほど、大粒の涙が頬のラインを流れていた。
「なんだ、お前、泣いてんのか?」
「な、泣いてなっい」
女はしゃくりあげながら両手の甲で目尻を拭った。
今度はアマンが驚いた。
今の返事は間違いなく西方語であったからだ。
「言葉わかるのか! よかったあ。シオリみたいに通じなかったら面倒だったからさあ」
アマンの言葉に女は一瞬はっとした表情を見せた。
気にした風もなくアマンは続ける。
「オレはアマン。カザロ村の勇者アマンだ。さっきお前が暴れた村の生き残りさ」
そう言ってアマンは右手を差し出した。
握手のつもりか、助け起こすつもりだったか。
しかし女はその手を見つめたまま動こうとはしなかった。
「お前はなんていうんだ?」
右手を引っ込めながらアマンは問うた。
「…………アユミ」
「アユミか。なあ、さっきトカゲどもを倒しまくってたの、あれお前だろ? バーン、バーンって炎でさ。どうやったんだ?」
「別に」
「えー。教えてくれよお。ニンゲンはみんなあんな風に変身して強くなれんのか?」
「…………」
アユミと名乗った女は何も答えない。
雨はますます強くなってきて、二人の体を強く打ちつけだした。
地面を即席の小川が流れ、木々の向こうに見えていたゴズ連山の山影はすっかり視界から消え去っていた。
「本格的に降ってきたなあ」
アマンは雨に煙る周囲を見渡した。
そこで少し離れた場所に何かが落ちているのが目についた。
はじめ赤い宝石かと思った。
斧だった。
長さは五十センチほど。
柄の部分まで届くほどの長い刃を持つ、赤く透きとおった美しい斧であった。
「これ、お前のか?」
アマンが手に取ろうとする。
「熱ッ」
その赤い斧は指先が触れた途端、小さな炎を発生し、アマンに触れられるのを拒否したようだった。
「深紅の一撃はあたしにしか持てないよ」
そう言ってアユミは斧を取り上げた。
いつの間にか先程まで発生していた湯気がアユミから立ち上らなくなっている。
美しい裸身に沿って雨粒が流れ落ちていく。
「っくしゅん」
女がひとつくしゃみをした。
両肩を抑え小刻みに震えている。
「おい、寒いんならさあ さっきみたいに炎使えばいいんじゃ?」
そういうアマンの言葉にだがアユミは目線を逸らし何も答えない。
「なあ、実はオレさ、お前と同じようなニンゲンの娘を知ってるんだ。そいつも白い剣を持ってんだけど、その斧みてえに他の奴等にはうまく扱えないエモノなんだ」
逸らしていた目線がアマンをまっすぐ見つめ出した。
「もしかしてお前の仲間かもしんないなって思ってさ」
「なか、ま……」
「そうさ! まだ間に合う。そいつのところに連れてってやるよ。さあ!」
「ダメッ!」
アユミの強い口調がアマンを怯ませた。
「ダメだよ。その人と私を、絶対に会わせちゃダメ」
それまでと打って変わり強い意思を見せるアユミにアマンは面食らった。
「ど、どうして……お、おいッ」
最後まで言わせずアマンの手をとると全裸のアユミが力強く歩きだした。
「連れてって」
「は? いま会わせるなって」
「だからその娘のいない方に行くのッ」
「はあ?」
「どこにいるの? こっち?」
アユミが腕を伸ばして東を指差す。
「い、いやちがう。ここからだと北だ。ゴズ連山の」
「じゃあ南へ行こう」
アマンの手を離さず南に向けて森の中を進み始める。
「お、おい! オレはそっちには行きたく……」
「お願い一緒にいて」
拒否しようとしたがアマンは口を閉ざす。
立ち止まったアユミが振り向いてアマンの目をジッと見つめていた。
「ひとりだと怖い。一緒にいて」
そう言って再びアマンの手を強く引っ張り歩き出した。
(な、なんなんだ、こいつ)
アマンは呆気にとられたまま、赤い髪の全裸の少女に連れて行かれるままにした。
方角は南。
ウシツノたちがいるゴズ連山とは真逆だった。
南には海が広がっている。