【第215話】多重結界

 ペンが止まった。

 机の上に広がる書きかけの原稿に目を落としたまま、偉大なる年代史家エンメが呟く。

「真の覚醒に達したか。白姫よ」

 四方を石壁におおわれた、窓ひとつない冷たい部屋で、ランプの明かりがこの小さな老人のシルエットを大きく壁に写し出していた。

 そして偉丈夫は虚空を見上げた。

 闇だけが重くのし掛かる広い空間で、足元の細かな砂を踏みしめながら。

「気付いただろうな、エンメよ。貴様が最も過小評価していた姫神ではなかったか、白姫は」

 百獣の蛮神ズァが巨獣の固い骨から削り出した大鉈を担ぎ上げ歩き出した。

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

「本当にシオリなのか」
「ええ、そうですよ。タイランさん」
「むっ」
「ハクニーを癒す間、私の代わりに桃姫の相手をお願いします」

 タイランが首を巡らすと、少し離れた位置にハクニーが血だらけで倒れていた。

「承知した」

 逡巡する暇はない。
 ひと目でハクニーの危険性が垣間見える。
 ハクニーの元へと向かうシオリをかばうようにして、タイランは桃姫マユミの前に立ちふさがった。

「ちょっと! 待ちなさい! 私のお願いはどうなったのヨ」

 マユミの鞭がシオリを襲うが、それをさせじとタイランの剣が伸びた鞭を叩き落とした。

「邪魔しないでヨ! 超龍騎ハイドライド・スペシャルッ」

 猛烈に渦を巻きながら、マユミの神器が十条ほどの鋭い鞭となってタイランに襲い掛かる。
 ひとつひとつがバラバラで、不規則な動きをする竜巻のようだ。
 だがそのすべてをタイランはかいくぐり、そしてマユミに向かいレイピアを一突き繰り出して見せた。

「きゃうっ」

 目元のマスクへ襲い掛かったその突きを寸でのところでかわしながら、マユミの方から十分な距離をあけることになった。
 その顔には信じられないといった驚愕が見て取れる。

「内から力がみなぎる。シオリが転身した時はいつもそうだ。力が与えられる」

 一瞬、複雑さを噛み殺したような表情を見せたタイランであったが、すぐに気を取り直しマユミに相対する。

「私と戦おうというの? たったいま死にかけたというのに。ならもう一度ヤッテあげる! ドグラ・マグラ!」

 グワン、と頭を鈍器で叩かれたかのような衝撃が一瞬訪れる。
 一度側頭部を手で押さえたが、それ以上何も異常は起こらなかった。
 タイランのその様子にマユミが驚きで目を剥く。

「対幻惑としてタイランさんの精神抵抗値を上げておきました。もうあなたの幻魔術は効きませんよ」

 そう話すシオリの隣でハクニーが何事もなかったかのように立ちあがった。
 タイラン同様に意識を取り戻したようだ。

「私は白姫。すべてを癒す姫神。次は、あなたを癒します」

 ずい、とシオリがマユミに向かい近付いていく。

「な、私を癒すですって? 何を言って……」
「あなたは呪われています。今のあなたは本来のあなたではない」
「なに言って!」

 構わずズンズンと近づいてくるシオリにマユミが再び鞭を振るう。

「ハイドライド・スペシャルッ」

 唸りを上げる十数本の鞭がシオリに襲い掛かるのだが、そのすべてがシオリに届く直前に眩い光に弾きかえされた。

「く、来るなッ! ドグラ・マグラ!」

 シオリに幻術は効かない。

槍の尾テイルズ・オブ・スピアッ」

 キリのように鋭い尻尾がシオリを刺し貫こうと迫ったが、一瞬現れた光の盾に弾かれた。

桃色吐息ポイズン・ピンク

 口元に右手を添え、フゥーっと長めに息を吐くと、桃色に染まった猛毒の霧が生まれる。
 だがその息もまるで気にせずにシオリは近付いてくる。

「今の私とあなたではレベルが違いすぎます。私の周囲に張り巡らした常時発動の多重結界が認識できていない時点で、あなたに勝ち目はないです」
「そんなッ……同じ姫神なのにッ」

 視えない実力差にマユミがおののきながら後退っていく。
 シオリ自身が認識している自己の結界は多岐にわたる。
 守護結界として物理攻撃回避、防御力増強、魔法耐性、対炎、対冷気、対ブレス、毒防御、麻痺防御、精神防御(睡眠、混乱、魅了など)、嘘発見、罠感知、エナジードレイン効果無効。
 そして補助結界として常時回復、意気昂揚、恐怖除去、視覚、聴覚、嗅覚上昇、暗視付与、環境変化適応、体温維持、心肺能力向上、運動能力上昇、幸運値補正、重力制御補正。

 これらの多重結界を認識できないようでは、当然これらを中和し攻撃を貫通させることもできない。
 今のシオリにとってマユミのいかなる攻撃も恐れる必要はないのである。

 目前に迫ったシオリの手が、マユミの顔に張り付いた黒いマスクに伸びる。

「や、やめてッ! 来ないで」

 バチッ!

 マスクに触れたシオリの指先が強烈な破裂音を響かせて弾かれた。

「ギャッ」

 たまらず悲鳴を上げたのはマユミの方だった。

「そのマスクですね、呪いの元は」
「く、こない、で……さわらないで」

 ヨロヨロと後退るマユミにシオリがさらに近付こうとした時だった。

「ギャアーーーーッ」

 集落の奥から悲鳴が聞こえた。
 それもひとつふたつでは済まない。

「な、なに?」
「まさか、他にも侵入者が」

 タイランの発言にシオリの注意が一瞬逸れた。
 その隙に夜空へ飛び上がったマユミが退散する。

「待って」

 後を追おうとしたシオリを止めたのは、その場にやって来た若いケンタウロスの戦士が伝えた報告のためであった。

「申し訳ありません! トカゲの老剣士ひとりに、私以外の戦士全員が、やられました」
「なんですって!」
「剣聖か! 被害は?」

 悲愴な顔で倒れかかるハクニーを支えつつ、タイランの発した質問に報告に来た戦士が沈痛な面持ちで答える。

「およそ半数が手傷を負い、残りの半数の者は、残念ながら……」

 桃姫に気をとられた隙に剣聖にしてやられた。
 まさか闇夜にひとりで乗り込もうとするものが二人もいたとは。
 そしてその二人ともが一軍に匹敵する戦力を擁していた。

「絶対的不利なのは承知していたが、条件が悪すぎた」

 報告ではすでに剣聖グランド・ケイマンは集落の外へ脱したようだ。
 逃げたとは言えない。
 意気揚々に凱旋したのだ。
 タイランは苦い顔でこぶしを握り締めた。

「オレが奴ならここで終わらせる。夜明けとともに、奴らは総攻撃を仕掛けてくるだろう」

※この作品は小説投稿サイト「小説家になろう」にて掲載、鋭意連載中です。

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